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距離を置くという選択は、逃げではない

距離を置くという選択は、逃げではない

「距離を置いたほうがいいのかもしれない」

そう思いながらも、その選択にどこか後ろめたさを感じている人は少なくありません。

相手を傷つけるのではないか。

自分が弱いだけなのではないか。

向き合うことから逃げているのではないか。

距離を置くという言葉には、どこかネガティブな響きがつきまといます。

けれど本当にそれは“逃げ”なのでしょうか。

「距離を置く=関係を壊す」ではない

多くの場合、距離を置くことは「別れの前兆」「関係を終わらせる行為」として語られがちです。

ネット上には

「距離を置く=もう終わり」

「本当に大切なら離れない」

といった強い言葉も並びます。

けれど、関係性は本来もっと複雑で、直線的なものではありません。

近づくことで見えなくなることもあれば、離れて初めて分かる感情もあります。

距離を置くことは必ずしも関係を壊すための行動ではなく、関係を見直すための時間でもあるのです。

苦しさの正体は「距離」ではないこともある

「一緒にいるのに苦しい」

「連絡を取るたびに疲れてしまう」

そんな感覚があるとき、問題は“距離”そのものではない場合があります。

  • 相手に期待しすぎている
  • 本音を言えない状態が続いている
  • 自分を後回しにして関係を保っている

こうした状態のまま近くにい続けると、関係は少しずつ歪んでいきます。

距離を置くことはその歪みに気づくための「間」をつくる行為とも言えるでしょう。

向き合うために、あえて離れるという選択

よく「向き合うことが大事」と言われます。

確かにそれは間違いではないでしょう。

ただし、向き合うために距離が必要な人もいるという事実は、あまり語られていないように感じます。

感情が渦巻いているとき、相手の言葉も、自分の気持ちも、正確に捉えることは難しいものです。

少し離れてみて初めて、

  • 自分は何に傷ついていたのか
  • 何を我慢していたのか
  • それでも一緒にいたいのか

そうした問いに、落ち着いて向き合えることがあります。

距離を置くことに「正しい形」はない

距離を置く期間や方法に、正解はありません。

数日連絡を控える人もいれば、しばらく会わない時間を選ぶ人もいます。

大切なのは、「どう見られるか」よりも「自分がどう感じているか」です。

周囲の意見や一般論に合わせて無理をすると、結局また同じ苦しさに戻ってしまうこともあります。

逃げかどうかは、外からは分からない

距離を置くという行動が「逃げ」に見えるかどうかは、外側の評価にすぎません。

その選択が自分を守るためのものなのか、考えるための時間なのか、それとも本当に避けているだけなのか。

それを判断できるのは、その関係の中にいる本人だけです。

関係を大切にしたいからこそ、距離を置く

すぐに答えを出さなくてもいい。

白黒つけなくてもいい。

距離を置くという選択は関係を投げ出す行為ではなく、雑音を減らして、自分の気持ちを聞くための静かな時間なのかもしれません。

近づくことだけが、愛情ではありません。

離れることにも意味がある場合があります。

あなたが今、距離を置きたいと感じているなら。

それは弱さではなく、何かを大切にしようとしているサインなのかもしれません。

新潮社 柴門ふみ
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